すべて世はこともなし 河童の件 第参話
梅雨が明けたのは、7月の半ばを越えてからだった。
木々は潤い、青々とした葉を天高く伸ばしている。
外はかんかん照りの青空で、胸のすくような思いを熱風がさらっていく。
蝉の声は道路を焦がす音のようにじりじりと鳴いている。
そんな中、サツキとアシヤの二人は電車に揺られていた。
電車の4人席に向かい合って座り、サツキは窓を眺め、アシヤは古びた本を読んでいる。
ピークタイムを越えた平日の朝。二人の行き先の同行者は少なく、車両には二人しかいなかった。
「……」
「……」
やや重い沈黙が続く中、サツキはぼんやりとこの状況に立った経緯を思い出していた。
***
「——課外授業?」
カガリは昼食の弁当を片付けながらカスミを見た。
「そうそう、行ってもらいたいところがあるんだ。そこにある逸話について調査し、レポートを書いてきてくれば単位をあげるよ」
「ほんとですか!でも夏休み中じゃないんですね?」
「まあ、学年全体のイベントじゃないからね~。それに、夏休みはゆっくり遊びたいだろう?」
「カスミさん……!良心的ですねえ!」
「どこがだよ……!」
うっとりと目を輝かせるサツキに対し、アシヤは重い目でカスミを睨みつけている。
「百歩譲って僕が行くのはいいとして、なんでこいつと二人きりなんですか⁉」
「いや~どうしてもこの時期仕事が立て込んじゃっててねえ。お盆の準備もあるだろう?」
「それなら僕が……」
「アシヤ君、こないだ僕が言ったこと、忘れてないかい?」
「……」
シリアスな表情で黙り込んだアシヤを見て、サツキは首をかしげる。
「何かあったんですか?」
「……アシヤ君、研究熱心なのはいいんだけど大学の方はおざなりでねえ。今年も単位が危ういんだよね?」
「ぐ……!」
「ああ、3留の件ですね!」
「うるせえ!お前にだけは言われたくない……!」
「サボりが原因で留年なんてもったいないですよ~!せっかく術はすごいのに……」
「ほんと、術はすごいんだけどねぇ~……」
「……クソが……」
「まあ、行ってくれれば前期の単位は他の教授にかけ合ってあげるからさ。ここは一つ、よろしく頼むよ。アシヤ君」
「……」
アシヤは何も言わず、踵を返して自分の席に戻っていった。
「そういや、行き先と目的はなんでしたっけ?」
「そうだね、まずはこのレジュメを見てもらって……」
***
「河童の御霊会……」
窓を眺めてぽつりとつぶやくサツキ。アシヤは本に目を落としたまま答える。
「今から行くところはかつて『河童村』と呼ばれた地。せいぜい尻子玉が取られないようにするんだな」
「こ、怖いこと言わないでくださいよぉ……!でも、河童の御霊会ってなんか不思議ですね。御霊会って、怨霊になった魂が祟りを起こすことを防ぐためにするお祭りですよね?」
アシヤは怪訝そうな表情でサツキをちらりと見た。
「……カンペでも持ってんのか?」
「し、失礼な!ちゃんと自分でもネットで調べてきたんですよ!河童はキュウリが好きとかね!」
サツキはふふんと胸を張る。それを見てアシヤは鬱陶しそうに首を振る。
「ネットごときで偉そうにするなよ……。だが御霊会についてはお前の認識は正しい。御霊信仰の代名詞だ。お前が違和感を感じているのは、対象が妖だからだろう」
「そう、そうなんですよ!妖が怨霊になることってあるんですか?以前妖は現世と常世を行き来できるって聞いていたので、そもそも死の概念ってあるのかなって……」
「……逆に聞くが、妖にとっての死とはなんだと思う?」
「え!……妖は肉体を持たないんですよね。肉体の消滅が人間にとっての死だとしたら……」
「……」
「魂が認知されなくなること、とか?……あれ?でもそしたら……ん?」
頭を抱えて悩むサツキを前に、アシヤはつぶやく。
「……そう。妖の存在は非常にあいまいだ。肉体はないが、たしかに『そこにいる』。妖の死体を見たものは未だいない」
「え?じゃあ……」
「妖はそこにある木々であり、川であり、工芸品であり、嗜好品でもある。ということだ」
「……全然わかんないですね」
「人間には証明できない理屈で、妖は存在しているんだ。ちょうど、僕たちがなぜ存在しているか誰も知らないように」
「……でも!人や生き物は微生物から進化したって聞きますよ!そういった原理はあるんじゃ……」
「それで言ったら、妖は人から生まれた、と言ってもいいだろうな」
「……え?」
「なんにせよ、今から行く村では『かつて河童が死に、その怨霊が村を脅かす可能性があるから、毎年御霊会を行っている』という事実があるだけだ」
沈黙。
しばらくすると、がたごとという車輪が線路を滑る音と共に、電車のアナウンスが聞こえてきた。
「……次の駅で降りるぞ」
「あ!待ってくださいよ~!」
荷物の少ないアシヤは、足早に入口の前に立つ。
反して、なぜか荷物の多いサツキはあわあわと降りる準備をする。
ゆっくりと電車は止まり、ぷしゅーと音を立ててドアが開く。
雲一つない青空が、地面を白く照らしている。
その地面に降り立ったアシヤの表情が、一気に澱んだ。
「……あっつ……」