すべて世はこともなし 河童の件 第弐話
……。
あの子が泣いている。
たった一人の私の子。
小さな手。
柔らかい頬。
そのどれにも触れる事なく、あの子は……。
声が、遠ざかっていく。
待って。
連れて行かないで。
……。
…………。
***
「やまないね~、雨」
「……」
カスミゼミ、ゼミ室。
部屋の電灯は煌々と灯っているにもかかわらず、暗さを拭いきることはできていない。
雨は静かに地面を濡らし、窓にしとしとと水玉を作っている。
部屋にはアシヤとカスミのみ。
カガリはサークルがあるからと、講義が終わったら早々に帰っていった。
「カガリ君、柔道部だっけ?いいね~、楽しそうで」
「……あんなの脳筋ですよ」
「そうかい?ちょっとずつだけど祓の基礎も身に着けてきているじゃないか」
「遅すぎます。今のペースじゃ卒業までに十式扱えるかどうか……」
「彼女には彼女のペースがあるからねえ。それに、適応している詞もまだ見つかっていないし」
「詞……」
祓。
カスミが操る術の一つ。
古の言葉「詞」を操り、妖と「対話」するための術。
陰陽道や修験道といった伝統的な術式とは異なる、まだ歴史の浅い術式だ。
陸陽大学では妖にまつわる術も研究が進められている。
そして祓も、研究対象の一つだ。
カスミはその新興術式の発見と解明を成し遂げた、本来なら国民栄誉を与えられてもおかしくない人物だ。
だが、それは未だ為されていない。
カスミがそれを拒んでいるのである。
「祓は日の目を浴びるべき術ではない」
そう論じているのだ。
今のカスミの立ち位置は政府との折衷案である。
そのことを知っている者、そしてカスミの意図を完全に読んでいる者は、まだいない。
「君が詞を操れるようになるのも早かったねえ。でも本来はもっとかかるものだからさ」
「……アイツ、本当にやる気あるんですか」
「本人に聞いてみたら?」
「……ちっ」
アシヤは舌打ちして、顔を背ける。
緑に滴るしずくを見ながら、カスミは笑った。
「焦りは禁物だよ。彼女は素人なんだから。それに、まだ若いしね」
「だからですよ。今からでも修験道に行かせた方がいいんじゃないですか、アイツ」
「なんで?」
「……夜行事件の話、聞いたでしょう。アイツに妖を近づけたら危険です。許町のアレもやめさせるべきだ。アイツは――」
アシヤは、手元のスクラップブックに目を落とす。
そこには、古びた新聞の切り抜きが一枚、赤いマーカーで囲まれていた。
「――僕と同じ、妖と共存できない人間だ」
***
「……夜行事件。あの時のことがそう呼ばれているのは知っています」
サツキは1冊、赤く分厚いスクラップブックをカスミに手渡した。
淡々と語るその顔に、感情はほとんどなかった。
「両親の惨殺が、何か大きな事件に関係していること。そして、犯人は昔話題になっていた妖の反社会的勢力『ワタリガラス』の一員だと言われていたこと」
机に置いていた手をぎゅっと握りしめ、サツキはつぶやく。
傍らのアシヤも、眉をひそめ黙って聞いている。
「……容疑は否認され、釈放されたということも」
「当時すでにワタリガラスは解体されていたからね。無力化している彼らに犯行は無理だと言われている。アリバイもあった」
「……犯人が妖ということは確かです。あの金色の眼は、人のものではありません」
「そうだね」
「だから……私は確かめたいんです」
サツキはじっと、カスミを見た。
決意のこもった、まっすぐな瞳で。
「犯人は誰なのか。なぜ両親を殺したのか。妖と『対話』できる祓なら、きっと見つけ出せる」
「……」
「だから、よろしくお願いします」
サツキはそういって立ち上がり、カスミとアシヤに向かって静かに頭を下げた。
今にも、雨が降り出しそうな空だった。
***
「あの馬鹿は……僕と同じ復讐者だ。あんな考え方でよく『白になる』なんてほざけたもんだ」
「そうかい?」
「そうですよ。アイツもどうせ、犯人を前にしたら自分を抑えられなくなる。祓は妖にとって槍にも盾にもなります。犯人を惨たらしく殺す方法だってその気になれば手に入れられる。そうなる前に止めさせた方がいい」
「……ふふっ」
深刻な面持ちで話すアシヤを前に、カスミは笑いを漏らした。
それを見てアシヤは一層顔にしわを寄せる。
「……なんですか」
「まるで、自分のことみたいに心配してるんだね。カガリ君のこと」
思いがけぬ言葉に、一瞬面食らう。
「……違います」
「自分の二の舞になってほしくないんでしょ、アシヤ君」
「いや、なんであんな奴のこと僕がいちいち心配しないといけないんですか」
「うんうん。あの子を入れてよかったと、僕は今でも思っているよ。なんだかアシヤ君のツンケンもかわいく見えてきたしね!」
「本当にやめてください気色悪いですよ‼」
どうやらカスミにはアシヤとは違う世界が見えているようだ。
アシヤは心底嫌そうな目で、愛玩動物を愛でている時のようにほんわかしているカスミを見る。
「やめてくださいよその目……!とにかく、僕は反対です。向こうが辞めない限りは面倒見てやりますが、カスミさんが一言『辞めろ』とさえ言えば、僕は喜んでその手を離しますよ」
「……それじゃあ、一つ試してみるかい?」
カスミは、相変わらず笑っていた。
だがその笑みは、アシヤにとっては悪魔のような微笑みだった。
「アシヤ君とカガリ君、二人の根が本当に同じなのかどうかを、ね」