すべて世はこともなし 河童の件 第壱話
六月。
体育館は運動部のサークルの活気ある声が響いていた。
バレー部のシューズと床が擦れる音の中に耳を澄ませると、雨が地面を打つ音がかすかに聞こえてくる。
普段屋外で活動しているサークルは、一旦活動を休止しているか体育館でできるストレッチや筋トレをしていた。
サツキの所属している柔道部は、元々屋内の活動なのでさして梅雨の影響を受けていない。
だが、今サツキたちは休憩がてらバドミントン部の活動を眺めている。
体育館のでこぼこした壁に背をつけて、アオイや一年の後輩——アサギトモヤとゆるゆると話す時間も好きなのであった。
「――へえ、アシヤ先輩今そんな感じなんスねぇ~。シビれるっス!」
トモヤは砕けた敬語しか使えないが、その人懐っこさと真面目さで柔道部にすぐに馴染んでいた。
そしてトモヤはなぜか、あのアシヤの大ファンなのであった。
「トモヤぐらいじゃない?あの『人でなしのアシヤ』にそこまで肩入れしてるの……」
「そりゃあアシヤ先輩は、あの年で陰陽道に精通してるだけでなく!カスミゼミの『祓』とかいう術もすでにかなりの領域まで使えるようになってるなんて、才能の塊じゃないっスか!」
「その代わり性格を置き去りにしてるけどね~」
サツキがトモヤを意地悪そうな目で見る。だが実際そうなのだから仕方がない。
この数か月、アシヤを間近で見てきたサツキは、すっかりアシヤの性悪さに慣れていた。
罵詈雑言は当たり前、できなければ貶
教え方だけはきっちりしているため、はたから見れば着実にサツキの知識や技術は身についているように見えるだろう。
だがその代償とでもいうかのように人の私物を勝手に使用するのはいただけない。
最初こそ先輩のように接していたサツキだったが、今では敬語で話すだけで本気で殴り合いをしている有様だ。
トモヤはそんなアシヤを知ってか知らずか、焦りながら擁護する。
「そ、そこは!『天は二物を与えず』というか!その孤高な雰囲気もかっこいいんスよぉ~」
「そんなに言うなら来年はカスミゼミかな?」
アオイがなんとなしに尋ねると、トモヤは首を横に振った。
「い、いや!俺は陰陽師になるって決めてるんス。凄腕の!」
「強く出るじゃん!これは期待だね!」
サツキがばしばしとトモヤの背中を叩く。トモヤは痛がりながらも、その頬は真っ赤だった。
「こんなにわかりやすいのに気づかないもんなんだね……」
「ん?アオイ何か言った?」
「ううん。トモヤ、部長があっちで呼んでるよ」
「げっ!またぶん投げられる……!」
「いってら~」
トモヤが怯えながらその場を離れると、アオイとサツキだけが残った。
女性部員は二人の他にもいるが、今日はバイトなどで休みだった。
二人の間に沈黙が流れるが、それは重苦しいものではない。
信頼と友情のなせる、とても穏やかな空気だった。
アオイが、ふとつぶやく。
「そういえば、あの鬼たちの件はどうなったの?」
「ああ、サグメくんはとりあえず釈放されたよ。でも今までの前科があるから、慈善活動しろって言われてた」
「カスミさんの裁量?すごいね、警察なしで……」
「警察にかけ合ったみたいだよ。だから近くの交番の人が巡回してるみたい。それでもすごいけどね」
「慈善活動ってどんなのなんだろう?」
「許町の清掃活動!私も手伝ってるんだ~」
「こら、サツキまで手伝ったら意味ないじゃん」
「だってなんだかんだアパートのみんなも手伝ってくれてるもん!キコちゃんもいるし……」
「サツキ」
アオイが静かにサツキの名を呼ぶ。
怒っているのでもなく、悲しんでいるのでもない。
ただ、サツキを心配する、いつもの声。
「許町の妖が悪い者ばっかりじゃないってことはサツキが教えてくれたよね」
「……うん」
「でも、妖も人も良い者ばかりじゃないってことも、サツキが一番よく知ってるよね」
「うん」
「だからこそ、一人で行くのは危ないよ」
「……」
「……」
しゅんとしてうなだれるサツキ。
アオイはその姿をしばらく見て、ふふっと笑った。
サツキの両頬を軽くつねり、上下に動かす。
「今度私も連れてって、ってこと!」
ふにゃふにゃと顔をいじられるサツキの顔が、笑顔に変わる。
「……アオちゃ~ん!!」
じゃれあう二人の笑顔を、トモヤは嬉しそうに見ていた。
……間髪入れず部長に投げられたのは、言うまでもない。
***
「あめ!」
「走ると転ぶぞ、キコ」
サグメとキコは、今日もアパート周辺の清掃活動をしていた。
黄色のレインコートと長靴をはいたキコは、てこてこと走っては振り返り、歩くサグメを催促する。
その先には、大きな花壇があった。
濡れた土の中にはちらほらと緑の葉が覗いている。
「そんなに早く咲かないよ」
「いつ?」
「夏に咲く花もあるって言ってたから、来月ぐらいかな」
「いつ?」
「……この長い雨が終わったらかな」
「あめ!」
「ああ、帰ったらてるてる坊主作ろうな」
「つくる!」
にこにこと花壇を眺めるキコ。数か月経って、すっかり表情豊かになり口数も増えてきた。
最近はヌラに読み書きを教わっている。老若男女が集い、公民館で妖の寺子屋が開かれているのだ。
すっかり、平和が戻ってきた。
「……」
だが、カラスはそこにいる。
街路樹の茂みの中で黒い何かが動いたのを、サグメは見逃さなかった。
「……わかってるよ」
そうつぶやくと、カラスは音もなく飛び去った。
険しい顔でそれを見送ると、サグメはキコに笑顔を向け、アパートに帰っていく。
灰色の雨雲に消えていく黒い鳥は、今はまだ何も語らない。