天邪鬼の件 第拾捌話
「……お前らが鏡を狙っていたのは、力をコピーした浄玻璃鏡を手の内にしようとしていた。力を秘めた鏡は丑三つ時になると常世と現世をつなぐ時がある……それを利用したんだろう」
アシヤの考えに、女は少しだけ頷いた。
「概ねその通りです。私と向こうの私が入れ替わったのちに、鬼が雲隠れを使って鏡を奪う。私は大学に潜入して機密情報を探る。そういう計画でした」
「それにしてはえらく鬼の動きが筒抜けだったな」
「あの鬼が悪いのです。彼は我々の言うことを聞かずに飛び出してしまった。……まあ、その騒動の間に手に入れたい情報は手に入ったので良しとしますが」
「情報?」
「なんだと思いますか?」
アシヤは少し考え込む。
顔色は着実に悪くなってきている。わずかに見える指先も白い。
「……図書で探れるのは禁書だ」
「ご明察。とある禁書の写しを手に入れたので、あとはあの鏡さえ手に入れば準備は整ったのですが……」
「浄玻璃鏡を使う禁術……」
「あの鬼が壊してしまったので仕切り直しです。最も、別の方法が見つかったのであちらはもう用なしですね……もちろん、あの鬼も」
「随分と悠長だな。あの鬼も殺そうと思えばすぐに殺せただろうに」
「これでも慎重に事を進めているのですよ。こうしている間にも、我々の計画は着実に進んでいる。ひっかきまわしているのはあの鬼だけです。……私怨がなかった、苦しんでほしかったわけではないといえば嘘になりますがね」
「――じゃああの時!」
カガリが思わず声を上げる。
アシヤの動きが読めない。何を考えているのかわからない。
――この人はどうやって、今の状況を切り抜けようとしているのだろう?
「あの時、鬼さんに鞄を取られてたのは……?」
「……あれには大事なものが入ってたんですよ、鬼にとって。それを使って契約を交わしたのでしたが、まさかあんなことをするなんて」
「そんな……」
「彼の暴挙にはほとほと呆れております。まったく、なんであの人はあの鬼に甘いんでしょうか……」
「あの人?」
「……おしゃべりはここまでです。そろそろあなたの意識も怪しいのではないですか?」
「……」
アシヤの唇は紫色になり、血の気は完全に引いている。
目元のクマも相まって、いつ気を失ってもおかしくない状態に見える。
「アシヤさん!このままじゃ危ないですよ‼」
「言っただろうが……この泥に近づけばお前は死ぬ。だからお前は今すぐ離れろ……」
そこでカガリはようやく気付いた。
ポケットに入っている物が、熱を帯びているということに。
それが、アシヤからのメッセージだということに。
「……ごめんなさい。アシヤさん。私……」
「……さっさと、行け」
「……っ!」
走り出すカガリ。泥のない、出口の方へと。アシヤはうなだれるが、その姿を視界から消すことはなかった。
ゆえに、カガリがポケットから手鏡が入った包みを取り出すのも見逃さなかった。
「……今だ!」
広場の出口近くで、カガリは包みから鏡を取り出しアシヤのいる方向に向かって投げた。
小さな手鏡は、その大きさからは考えられないほどの光を一気に解き放つ。
そしてその光におびき寄せられた泥たちは群れのように鏡に押し寄せ、それに触れた途端煙となって消えていく。
「その鏡……!」
「……鏡には様々な逸話がある。悪魔が現れる、過去や未来が見える、自分の死に顔が写る……なんてのもある。だが鏡の本来の力は物を写すことじゃない」
徐々に拘束が解かれていくアシヤを攻撃しようと走り出す女を、もう一つの光が阻む。
「その原理は光を反射すること……つまり、跳ね返すことだ。呪いそのものである泥がこの鏡に移れば、それは自身に跳ね返る」
光の正体は、アシヤがズボンのポケットに入れていたもう一つの鏡だった。
アシヤの手にあるそれは空の月を写しだし、煌々と輝いている。
彼はカガリに講義をしているかのように、淡々と解説していた。
先ほどまでの顔色の悪さが嘘のように。
「こいつらは光に反応して動くから、自分から進んで呪いの力で無力化するってことだ。……力が強すぎてアイツには使えなかったよ。内臓を食い破りかねなかったからな」
「騙したんですね……」
「あんなの、僕に効くわけがないだろう?名うてのアシヤイオリ様に、さ」
「ち……っ!」
アシヤが鏡を構えた途端に素早く足を止め、別方向へ逃げ出す女。
宙に浮いていた足が地に着いた時、彼はカガリに問いかけた。
「脳筋に問題だ。丑三つ時、この鏡にあいつが写ったらどうなると思う?」
「え!そ、それは……。……呪いが跳ね返る、とか?」
「外れだ。月の光は強い浄化作用を持つ。もしこいつが本当の獄卒なら、魂ごと消滅する」
「そ、それって……!」
「どうせこの世の者じゃない。現世に来た時点で大罪人だ」
言いながら、アシヤは女の面相書に鏡を向ける。
紙は鏡に照らされるとどろどろと黒い液状になって崩れていく。
面相書が跡形もなく消え去ると、そこには夜本来の静けさと、暗闇が訪れた。
「――認めましょう。今回は私の負けであると」
見ると、女は広場の片隅にある池の中にいた。女の腕には、彼女と瓜二つの女性が一人、黒い泥を吐いて苦しんでいる。
女はひざ丈ほどの浅瀬にいるのに上半身しか出ておらず、髪一本濡れてすらいなかった。
「がっ……ごぼっ……!」
「やはりあなたを侮るべきではありませんでしたね、アシヤイオリ。そして、あなたのことも」
「え……」
「カガリサツキ、またどこかで会いましょう」
「!」
どぷん。
長い髪の女は、腕の中にいる女と共に水鏡の中に消えていった。
水面の紋様が消える。
あとには何もかもがそのままで、呪いも泥も初めからなかったかのように、穏やかな自然広がる広場だけが残されていた。