天邪鬼の件 第拾漆話
いつの間にか、夜はすっかり深まっていた。
講義もサークル活動も終わり、生徒はほとんど姿を消している。
各棟の電気も消え、辺りを街灯だけが照らしている。
陸陽大学は複数の棟が半円状に連なって建てられており、その中心には緑が茂る広場がある。
その広場の奥、街灯が照らす麓のベンチに、女は座っていた。
「……」
「……」
沈黙が三人の中で流れる。
その女は和紙に書かれた面相と全く同じだった。
彼女はこちらに目を向けることなく、何やら本を読んでいる。
まるで、アシヤとカガリが来たことに気づかないかのように。
――否。
鼻から気にもかけていないのだ。二人の存在に。
「……鬼さんの呪いを解いてください」
カガリが一歩前に出て、本来の目的を口にする。
だが、女は意に介することなく、白く細い指でページをめくる。
それを見たアシヤは皮肉たっぷりにつぶやく。
「流石、地獄の門番は人間のことなどお構いなしってわけか」
「……その解釈には誤りがあります」
「何?」
女はこちらを見ずにぽつぽつと、しかしはっきりとした口調でつぶやいた。
「我々はあなた方に感謝しているのです。一度ならず二度も我々の窮地を救ってくださった。だからこれは、そう――情けです。あなた方が今すぐここを立ち去れば、そして口をつぐんで静かに生きてくれるなら……私はあなた方に手出しはしません」
「何の話――」
ぱたん。
女が本にしおりを挟み、閉じる音。
同時に、周囲の温度が急激に下がっていく。
夜の闇。それを照らす街灯が一つずつ、消えていく。
ふうと息をつき、女は立ち上がった。
「命知らずは馬鹿を見ますよ。――カガリサツキ」
「あ――!」
最後の明かりが消える直前。
その顔を見て、思い出した。
その目は誰よりも冷ややかで、雰囲気はまるで変わっているが、その直感は確信に変わった。
髪の長い、華奢な容姿。手元の小さな鞄。
――鬼に鞄を奪われかけた、あの時の女性だった。
***
暗転。
「おい!」
カガリがアシヤの声のする方を向くと、彼の手元の懐中電灯が辺りを照らした。
だがそれはすぐに消える。
「集光性の高い泥……!」
「そう、それは光を求めて外に出ようとします。苦しいでしょうね……無尽蔵に湧いてくる泥が、体内から外に出ようと暴れるのだから」
「どこから出した……と言いたいところだが、それどころじゃないようだな」
懐中電灯の明かりを消したのは、鬼を巣食っていた黒く粘り気のある液体だった。
アシヤが咄嗟に手を離すと、泥の一部が懐中電灯の元を離れてアシヤに襲い掛かる。
素早く紙札を泥に向かって投げると、泥は紙札のある周囲だけ一気に消えた。
だが、泥は後から次々と増え、アシヤの札だけでは抑えられないほど増えていく。
「これはとても脆い。ですが一度生み出してしまえば簡単に制御できます。……あまりに遠隔だと難しいですが」
女が話しているうちに、アシヤに向けて泥が一気に押し寄せる。
夜の闇だと思っていたものはすべて泥であるということに気づくのに、そう時間はかからなかった。
「アシヤさん!」
あっけなく捕らえられたアシヤは、胴体を泥で拘束されて宙に浮いている。
一つだけ、再び街灯が灯る。女の周囲は泥で埋め尽くされ、近づくことができない。
そして、大学の出口に道を指し示すかのように、カガリの周りをも泥で埋め尽くされた。
全て、一瞬の出来事であった。
「カガリサツキ、あなたには恩がある。なのでここで逃げる権利を与えましょう。ですがアシヤイオリ。あなたは危険です。我々の邪魔をするのなら消えてもらうほかない」
淡々と話す女に対して、アシヤは苦しげに、だが口角を上げて話しかける。
「なかなかやるじゃないか。僕に悟られる前に下準備しておいたってところか?」
「かなり骨が折れました。あなたは名うての術師だと聞いていたものですから。でも……ここまで簡単なら準備の必要もなかったかもしれません」
「ふん、馬鹿にしやがって……お前も『カラス』の手先かよ?」
「お答えできません。そういう契約ですので」
「そうか……なら最後に答え合わせだけさせてくれよ」
「アシヤさん!!」
「寄るな!!」
「!」
アシヤの元に駆け寄ろうとするカガリを、怒号で制す。
思わずびくっと体を震わせ、立ち止まる。
「これは呪いそのもの……突貫の魔除けじゃ太刀打ちできない代物だ。下手すりゃ触るだけで死ぬぞ」
「そんな……!」
牽制されたカガリは、ただ茫然と行く末を見守ることしかできない。
「……」
だが、彼があそこまで簡単につかまり、命を落とすとは考えられない。
――何か考えがあるのかもしれない。
そう思い、アシヤの周囲、そして女性のことを、悟られぬよう観察し始めた。
鏡。鬼。獄卒。
様々なキーワードから導き出される答えを、カガリなりに導きだそうとする。
一方、泥を制する女はアシヤをしばらく見つめ、少しずつ彼の顔から血の気が引いていっていることを確認したうえで、はっきりと答えた。
「……いいですよ。あなたの命が続く限りは、お答えしましょう」