天邪鬼の件 第拾陸話
目を閉じると、隣の治療室の喧騒が聞こえる。
そのざわめきは、カガリが目の前の探知機に集中するごとに遠くなっていく。
ざわざわ。
ざわざわ。
ざわ。
ざわ。
……。
…………。
「――助けて」
耳元で、声がした。
「助けて、サツキ」
「痛い、痛いよ」
「どうしてあの時助けてくれなかったの」
その声は、一人のものだけではない。
カガリが今まで助けられなかった人であり、妖であり、アオイであり、家族であり、両親だった。
「ぎいいいい」
「早くこちらにおいでよ」
「痛いのは嫌だ」
様々な声がカガリの元を飛び回る。
後方、前方、耳元、目と鼻の先。
それは何秒とも、何分とも、何時間ともいえぬ悠久の時だった。
額や首筋に汗が伝うのが分かる。
鼓動の音が聞こえる。
足が痺れる。
呼吸の乱れを抑えるので手一杯だ。
だがカガリは静止したまま、ただ待った。
呪いの根源が暴かれる時を。
誰が鬼を痛めつけているのか分かる時を。
アシヤが左手首を握るその瞬間を。
「助けて」
「僕はここにいるよ」
「サツキ、抱っこしてあげる」
「あ、あ、あ」
「もう目を開けていいよ」
「この役立たず」
「早く立て!サツキ!」
「さっちゃんならできるよ」
「いい子だね」
「いい子」
「いい子」
「いいこ」
「いいこ」
「いいこだからはやくしんで」
「――おい!!」
その声と共に、ぱっと目を開ける。
全身から汗が噴き出す。
悪夢を見た直後のような、嫌な汗。
肺が大量の酸素を求め、肩を動かして呼吸する。
カガリの左手首を、アシヤの手がしっかりと握っていた。
***
「……うまく、いきましたか……?」
ただ座していただけだというのに、激しい運動直後のように息が荒い。
カスミの介抱を受けつつ、ぜえぜえと呼吸しながらカガリは尋ねた。
「ああ、素人にしては上出来だ。これからは逆探知担当にでもなるか?」
「勘弁してくださいよぉ……!あんなの、何回もやりたくないです!」
「よく頑張ったね、カガリ君。鬼さんの呪いもなんとか紙一重で食い止めてる」
「よかった……、いえ」
「そう。問題はここからだ」
アシヤが、逆探知機が導き出した呪いの根源を暴くべく、装置から紙を取り出す。
「……女か」
「何が書かれてるんですか……」
カガリがよたよたとアシヤの横で紙を覗き込んだ途端、少し怪訝そうな顔をした。
「あれ……?」
「知ってるのか、こいつ」
「いや、う~ん……どこかで見たような……?」
紙にはぐるぐると円を描く軌道で、写真ほどの解像度でこそないものの、髪の長い女性の顔がはっきりと描き出されていた。
「もしお前と縁がつながってる相手なら、話は早い」
アシヤはまたカバンから何かを取り出す。
二本の細い金属棒をL字に曲げた、簡素なものだ。
だがその先には紫色の小さな美しい石が埋め込まれていた。
「なんですかこれ?」
「ダウジングだ。鉱脈や地中の配管を見つける時に使うものだが、これは縁専門だ。持ってみろ」
アシヤは棒をカガリに手渡し、石がついている方を先ほどの紙に近づけるよう促す。
すると、美しく光っていた石は黒ずみ、カガリは腕を右に動かした。
「……あれ、なんかこっちに引っ張られますね」
「近いな。こっちを監視してるのか?」
「引っ張られる方に行けば、犯人が見つかるんですね!」
「ああ。だが罠の可能性もある……そのまま行けば格好の餌食だ」
「これを持っていきなよ、二人とも」
カスミが手のひらに収まるほどの小さな紙包を二つ取り出す。
「これは?」
「魔除けの小さい鏡だよ。どうもあちらは鏡に固執しているようだからさ、何か手掛かりになるかもね」
「……僕らをここまで泳がせてたのは、あの鏡を取り戻すため、ってことですか」
「推測だけどね。その二つもなかなか価値のあるものだから、大事にしてね~」
「ありがとうございます!」
「僕は残るよ。鬼さんのことを見てないといけないからね。――頼んだよ、二人とも」
カスミに見送られながら、二人は治療室を出て前に進む。
呪いの根源たる者へと挑むために。
***
「……」
一行は沈黙してダウジングの導くままに進んでいたが、カガリがアシヤの表情を見て尋ねる。
「……どうしたんですか?不機嫌そうな顔をして」
「僕の顔はいつもこうだ」
「え、そうなんですか?てっきり何か考え事をしてるのかと……」
「……今のところ、鏡と鬼の関係が掴めない。一体何があるんだ、あの鏡に……」
「最初アシヤさんはあの鏡のこと『本物じゃない』って言ってませんでした?」
「そう……カスミさんからも知らされていなかった。あの鏡に力があることを……だが変だ。本物なら僕の術返しなんか効かないはずだ」
「ううん……浄玻璃鏡がどれほどのものかはわかんないんですけど、模造品が本物の力を持つってこと自体あり得る話なんですか?」
「ああ……だがあれは常世専用のものだ。ましてあれは地獄の閻魔の所有物。あの連中がそう簡単に力をコピーさせるわけがない」
「じゃあ常世の誰かが、鏡の力を持ってこっちにやってきたのかもしれませんね!」
「そんなこと……あ」
「え?」
「できる……そういう仕掛けか!」
アシヤは一人で納得したように頷く。
カガリはきょとんとしてアシヤを見ている。
「わ、わかったなら説明してくださいよ!」
「お前がさっき言ったとおりだよ!常世の者が何らかのきっかけで浄玻璃鏡の力を手にする。そして現世の者と常世の者が入れ替わったタイミングで、鏡の力を持ってくれば……!」
「じゃあ鏡の力を持って来たのって、まさか地獄の……」
「そう。閻魔の側近、獄卒の可能性が高い!だからおそらく、入れ替わった相手は図書館の司書……うちの大学の人間だ!」
「そんな!大学の方がどうしてそんなこと……」
「わからない……だが獄卒がもし現世にいるとなれば、地獄の奴らも黙ってないはずだ。それが何もないということは、常世に行った人間の方も裏切者の可能性が高い……急ぐぞ!」
「は、はい!」
二人は走り出す。その道は、確実に陸陽大学の方角へと繋がっていた。