天邪鬼の件 第拾参話
「クソッ‼」
悪態をつきながら速足で歩く男。
その髪の毛にはまだゴミくずが引っかかっているが、それどころではないほどに怒り狂っている。
「……アイツがいつまでもあそこを離れないのが悪いんだ……!だのに解体しようとしたら常世の輩が散々妨害しやがる……!人間でもないくせに生意気なことしやがって!」
勢いに任せて青い公衆のゴミ箱を蹴飛ばす。中には何も入っていなかった。
それどころか、あたりは誰もいない。街中のすぐ隣にある地域にもかかわらず、とても静かだ。
そのことにすら、男は気づいていなかった。
「聞き分けのないやつらめ……あれだけ荒らしてやったのに台無しじゃねえか!せっかくツテを使って町に手を出さないようにしていたのに……なんなんだあいつら!」
「へえ。やっぱりお前のせいか」
「‼」
そこで男はようやく気付いた。道を間違えていることに。
そこは、妖が住まう場所。現世と同じ光景だが、現世ではない。
天高くそびえるアパート。それに隠れていた空がちらりと覗く。
その空は、とても赤かった。
男は声を震わせながら、なおも怒鳴り散らす。
「お前ら……!こんなことして、ただで済むと思ってんのか……‼」
「それはこちらのセリフだよ。散々僕たちの場を荒らしておいて」
声はすれども姿は見えず。男は見えない「何か」に向かって叫ぶ。
「おい!約束と違うじゃねえか!あの家さえなければ、俺たちは一生うまくいくって……!」
ずしり。
足に錘がついたかのように、体が動かなくなる。
「人間。俺たちは気が短いんだ。さっさとその口を閉じろ」
「や、やめろ!そ、そうだ、金なら出す!あの街を妖にとって住みよいところにしてやるよ!じ、爺さんもそれを望んでいたはず……」
ずしり。
今度は背中に重みを感じた。徐々に体勢が崩れ、起き上がれなくなる。
「爺さんの最後の言葉も聞こうとしなかったお前なんか、こっちから願い下げよ」
「た、助けてくれ……アイツさえいれば俺たちはもう大丈夫なんだ、頼む……」
「……悪いな、こっちもヌラさんの頼みでやってんだ。あの人に頭を下げられちゃ、断れねえ」
「そもそもお前が蒔いた種じゃないのさ。あの家を、爺さんの願いを踏みにじった罰よ」
「そうだね。あなたは『落とし前』をつけないといけない」
「落とし前」
「おとしまえ」
「オトシマエ」
「ぎ……」
男の断末魔は、誰にも届くことなく空に消えた。
***
ぱたん。
スマートフォンの折りたたみケースを閉じ、カスミはにっこりと微笑む。
その笑みの先には、フードを目深にかぶり直した鬼がいた。
西日に目を細めている鬼には、簡易な束縛術の紋が筆で書かれている。
だが鬼はもう、逃げるような真似はしなかった。
「ヌラさん、直してくれるって」
「え……」
鬼は意外そうな顔をした。
人間と自身を嫌うヌラに、人間が頼みごとをしに行くという行為は、彼にとってはかなりの博打だったのだ。
「あのひとが……?」
「どうやらいろいろと恩ができたみたいだよ。なんでも座敷童を助けたとか」
「キコを⁉」
驚きの表情をいよいよ隠せない鬼。それを見てもカスミは何も咎めることなく、ニコニコと話し続ける。
「うん。あそこのお爺さん、亡くなる少し前に、僕に言ってたんだ。『あの家を頼む』って」
「……なんだと?」
驚きの表情が一気に怪訝そうに歪む。
「息子さんは海外に飛んでたから、事情は何も知らないんだろう。まあ、あそこまでがめついことをしてたら、こちらからも手を出さざるを得ないよね」
「泳がせてたのかよ!あの時キコ泣いてたんだぞ!」
思わず詰め寄る鬼に、静かに指を立てる。
西日はまぶしく、カスミの表情を読むことは難しい。
それに気づいたのか、カスミはカーテンを閉めにゆっくりと立ち上がる。
「確信が持てないうちに行動してしまうと、不要な軋轢が生まれる。息子さんの様子が変わったのは、どうも奥さんを亡くしてからのようだからね」
「え……」
「不慮の事故のようだけど。息子さんは妖の仕業だと信じて疑わなかったようだ。お爺さんの妖が、邪を引き寄せたんだと」
「そんな……。でも、それじゃなんでキコを……?」
「座敷童は家に幸福を呼ぶ。それを履き違えたんだろうね。彼女さえいれば安泰だと。結構羽振りのいい行動をしていたみたいだよ、彼。結局、邪に取りつかれていたのはどちらなんだろうねぇ」
「……」
うつむく鬼。
ヌラはきっと、あの男に手を下すだろう。
妖が邪を運び込む。
今に始まった迷信ではない。
だが、あの老人が、我々妖と親交を深めているうちに、息子との縁が切れてしまったとするならば。
……否。
「――俺たちが気にするべきことじゃあない」
「そうだね。じゃあ、今の君にとって本当に重要なことはなんだい?」
「……それは」
カスミはカーテンの隙間から空を眺める。
薄く青い空に橙が差し、美しいグラデーションを作っている。
「僕たちは色々と訳ありでね。『カラス』のことを少しでも知らないといけないんだ。それこそ、因縁の関係ってやつさ」
「……あいつらに関わっちゃだめだ」
「彼らは十六年前に解体された。なのに今、その痕跡が出てきた。僕たちの目の前でね。それが君だ」
「……」
「僕から言えるのは、ヌラさんもキコちゃんも、彼ら――アシヤ君とカガリ君を信頼しているようだ、ということぐらいかな」
口をつぐみ、うつむく。
ヌラ達を引き合いに出してしまったことに、負い目を感じていないわけではない。
だが、アシヤたちは彼らに良い形で恩を作った。
あいつ等は、自分に何とかできる相手ではない。
だが、ヌラ達の勘――第六感は本物だ。
それに対して自分にできることは――。
「なあ――」
突然、口から何かが込み上げる。
声が出せない。
思わず吐き出す。
真っ黒な液体が床にぽたぽたと落ちる。
それは、鬼の生気をすさまじい勢いで吸い込んでいく。
「ごぶっ……」
「――喋らないで」
流れ出る液体は止まらない。濁流のごとく口から漏れ出るそれを止めることができない。
まるで、溺れているかのようだ。
カスミは迅速な動きで、崩れ落ちる鬼を抱きかかえ鳩尾にぐっと力強く指を押し込む。
「がぼぉっ……!」
「持ちこたえてくれよ……」
苦しむ鬼に時折言葉を投げかけながら、カスミはそのまま冷静に詞を唱える。
何が起きているのか、はたから見ても見当はつかない。
だが鬼の顔から見る間に血の気が失われていくその光景は、尋常ではなかった。
数十秒ほどして、カスミの唱える術が効いてきたのか黒く粘り気のある液体の流出は徐々に勢いを緩め、気管が酸素を吸い込む。
「がはっ!ごほっ!」
鬼はかろうじてぜえぜえと呼吸をしているが、その顔色はよくなるどころか真っ白だ。
「また面倒な呪いを……」
カスミは鬼をそっと床に寝かせ、アシヤの毛布を散乱している机の上から引っ張り出してかぶせた。
黒い液体まみれになったスーツを軽くハンカチで拭いながら、淡々と病院に連絡する。
妖専門の救急車を待つ間、カスミは倒れこむように椅子に座り込み、静かにつぶやく。
「――逃がしはしないよ」