天邪鬼の件 第拾壱話
「なんだ、ここにいたのか」
奥から出てきたのは、高そうなスーツを着た、中年の男だった。
髪の毛をきっちりワックスで固め、派手な赤色のネクタイと金色のネクタイピンが存在を主張している。
近寄るごとに強い香水が鼻につく彼は、目尻にしわを寄せてにこにこと笑っていた。
「失礼したね。この子はうちの養子で、なかなか家に慣れないみたいでさ。よくこうして抜け出してきてしまうんだよ」
「そ、そうなんですか……?」
訝しげに尋ねるカガリの目は、男の瞳に宿る妖しい光の正体を見定めようとしていた。
男は優しい声で、カガリたちに語りかける。
「うんうん。ここは先代のお家でね。三か月前に亡くなってしまったんだ」
「三か月前⁉」
明らかにおかしい。屋敷の様子は確実に十年以上は経っていると思われるほどに雑然としていたからだ。
よく見てみると、建築自体は年季こそ入っているものの、そこまで老朽化はしていないようだった。
「老齢だったからね。随分と可愛がってもらっていたようだから、忘れられないのも無理はない……」
男はしみじみと、悲しそうな顔をしている。
だがその目は少女から離れることはない。男は立ったまま目線を下ろして少女に話しかける。
「キコちゃん、もうこのおうちに爺さんはいないんだよ。ほら、君がいなくなってからこんなにボロボロになってしまった。僕たちも君が家にいてくれないと寂しいんだ。だから……」
一方的に話す男を見つめながら、少女はカガリの後ろに隠れる。
手はぶるぶると震え、顔からは血の気が引いている。
そんな少女にかまうことなく、男は焦るように少女の手首をつかんだ。
「さあキコちゃん、僕たちの家へ帰ろう」
「う……!」
カガリは思わず割って入る。だが男の掴む手は強く、少女を離すことはなかった。
「事情は分かりませんが、嫌がってるんだからやめてあげてください!」
「他人が他所の家の事情に口を出すものじゃないよ、お嬢ちゃん?ほら、早く行こう!」
男の手に力がこもり、少女は思わず小さく悲鳴を上げた。
「……いたい……!」
その時、カガリは見た。
少女の振袖から覗く白い腕。
その二の腕に、紫色の痣が点々と染まっていることに。
カガリは素早く男の腕をつかむ。
「……何?」
「やめてください」
掴むカガリの腕に力がこもる。
それは男の腕に傷をつけることなく痛みを与え、たまらず彼は少女から手を離した。
「いてっ!」
「大丈夫?」
心配するカガリを見て頷く少女。男の表情は一変し、一気に怒りの形相に変わる。
「君……さっきからなんなんだ!邪魔をするなら警察を呼ぶぞ!」
「……!」
警察という言葉に反応するカガリ。
警察は、この子を守ってくれるのだろうか?
彼らはきっと手を出せない。あの時に痛いほど気づかされた。
――ならば。
カガリは少女をかばい、男をきっと見据えた。
「……かまいません。私がこの子を守ります」
「はあ?赤の他人が何を言ってるんだ!」
「他人でも関係ありません!私は目の前の困ってる人を助ける、それしかできないから!」
「君、学生だろう。こういうことをすればどうなるのかわかってるのか⁉」
「やれるもんならやってみてくださいよ!それに私の家族は……」
カガリの目には、強い意志がこもっていた。
それは、危うくなるほどに。
「こういう時に、誰かを見捨てたりしません」
***
「――っ!」
明らかに男の頭に血が上っているのが分かる。顔は真っ赤になり、鼻息も荒い。
だが、男は深い息をついて、カガリたちに話しかける。
「綺麗事を言うのは結構だ。だが、私は何もしていない、聞き分けのないこの子を連れて帰ろうとしただけだ。――君が学生なら、妖に戸籍がないことぐらい知ってるだろう?」
「――!」
やはりこの少女は妖だった。だが、そうなると話は変わってくる。
妖には、戸籍が存在していない。
妖は現世と常世を行き来できるため、法律では現世にしか存在できない人間の方が優位なのだ。
故に人が住みつく場に妖がいれば追い出そうが共存しようが自由なのだ。
――妖当人の感情を置き去りにしたとしても。
「私はこの子と一緒に暮らしている。それだけが事実だ。私がそう言っているのだから、君にそうでないことを証明する手立てはない。もちろん、そのガキにもな」
徐々にメッキが剥がれ、語気が荒くなっていく男。
「それは……」
言いよどむカガリを見て、男はしたり顔でにやりと笑う。
「嫌なら常世に帰ればいい。妖ならそれができるはずだ。なのにこいつはそうしない。だから俺が教育してやってんだ。誰も文句は言えない。今のここの法律ではな!」
男は化けの皮を被ることを完全に諦めたようだ。先ほどのにやついた顔ではなく、心の中が丸ごと映し出されたかのような凶悪な笑みを浮かべていた。
勝ち誇ったようにカガリを見下し、煽るかのようにまくし立てる。
「俺はここらじゃちょっとした金持ちだ。ツテもある。俺に歯向かった落とし前、きっちりつけられるんだろうなあ?できないよなあ?ほら、お前の父ちゃん母ちゃんに泣きついてみろよ!」
カガリは思わず眉間にしわを寄せ、男を睨みつけた。
戦ってはいけない。そうわかっているが、拳を握る力を緩めることはできない。
ふと、その手にぬくもりが触れた。
見ると、少女が不安そうな目でカガリを見つめている。
――その目は、かつて私がしていた目。
思わず、カガリは少女を抱きしめた。
それを見て、男は完全に勝利を確信した顔で嘲り笑う。
「はは、学生ごときに何ができるってんだよ!」
「――お前をぶん殴れる、ぐらいかな」
暗転。
バキィッ!
重力に逆らって宙を舞い、男はゴミ山に突っ込んだ。
アシヤが音もなく近寄り、拳を男の顎に向かって大きく振り上げたのだ。
重心移動を使ったアッパーは、見事に男を吹き飛ばした。
「……さっきから僕抜きで楽しそうじゃあないか、えぇ?」