すべて世はこともなし 天邪鬼の件 第玖話
「断る」
「はあ?」
「あのクソガキがやったことだろ?自分のケツもろくに拭けねえ奴の肩代わりなんざ誰がやるかよ」
灰色が埋め尽くす許町アパート。人気のない敷地のさらに上。
10階建ての一番奥に、妖はいた。
大きく垂れ下がった後頭部をニット帽で覆い、渋い紺色の作務衣から出た腕はアシヤたちを拒絶するように組んでいる。
皴の寄った顔をさらにしわくちゃにして、金継師――塗羅は頑として首を振らなかった。
アシヤはため息混じりに状況を説明しているが、理解してもなお反応は変わらない。
「あのなぁ……。さっきも言ったが、お前もいわば人質の身なんだぞ。拒否権があると思うなよな」
「知るか!こんな老いぼれの首が欲しけりゃいくらでもくれてやるよ。だがアイツの尻拭いだけは死んでも御免だね!」
ふんふんと鼻を鳴らすヌラと歯噛みするアシヤの間に、カガリがひょいと割って入る。
「鬼さんとヌラさん、仲が悪いんですか?」
「おい……」
「……そうさなぁ、儂はここの住人には寛大だ。人に追われてきたひねくれものの妖が多いからな。だがアイツは本当に……何を考えてんのかわかりゃしねえ」
「どうしてですか?」
ヌラは考え込むようなしぐさをして唸る。
彼は許町アパート一帯の管理人であり、この地域の親玉だ。
こちらが手を出さなければ何もしない、とアシヤは言っていたが、その親玉が金継師であるということまでは知らなかったようだ。
ゆえに難儀していた。
親玉を頷かせることができなければ、首を取らなければならない。
親玉に手を出したら、人と妖の全面戦争になりかねない。
あの鬼はそこまで読んでいたのだろうか、と考えたところで、ヌラは口を開いた。
「アイツ、ふらっといなくなったと思えば金品をちょろまかして来たり、食い物を持って住人に分け与えたりしてるんだ。現世にいる以上人の法に触れることはするな、って言ってんだがねぇ」
「え……」
「……とにかく!アイツがやったことはアイツ自身で『落とし前』をつけさせろ。儂は所詮、赤の他人だ」
「埒が明かないな……」
アシヤが低い声で呟き、ごそごそと懐を探ったその時。
「じゃあ、私たちが『依頼』したらどうですか?」
「は?」
「鬼さんが鏡を割った『落とし前』じゃなくて、私たちが鏡の修理を『お願い』するんです。そうすれば対等なやり取りになるんじゃないですか?」
「馬鹿が。そんなことをしたらこっちが報酬を払う必要があるだろうが……」
「いいぞ」
「……え?」
思わず間抜けな声が漏れる。それを見たカガリはにっ、と笑う。
ヌラも笑っていたが、その笑みにはどこか含みがあった。
「客としてならその依頼、引き受けよう。こちらもなかなか困窮しているからな、ちょうど手が欲しいと思っていたんだ」
「本当ですか!」
「ただし」
ヌラはすっとカガリの前に人差し指を立てる。
にやりと細めた目に、暗い影がちらりと覗いた。
「こっちの条件を呑むのなら、だがな」
***
「いやぁ~、ここまで来ると壮観ですね!」
「……」
「これは腕が鳴りますよ~!一緒に頑張りましょう、アシヤさん!」
「……」
「それにしても、引き受けてもらえてよかったですね!ヌラさんってホントはいい妖さんなんじゃいだだだだだ」
突然耳を思いっきり引っ張られカガリが苦しむ。
アシヤは今までになく剣呑な表情をして、淡々とカガリの耳を引きちぎろうとしていた。
「痛い!何すんですか!」
「何じゃねえよ……お前のせいで余計な仕事が増えただろうが……しかも特大の」
アシヤは眼前の屋敷を見つめる。
アパート群のすぐ隣にその大きな屋敷はあった。
――全体に蔦が生い茂り、ゴミにまみれた屋敷が。
「政府はなんでこんなもん放置してんだ!クソッ……」
「まあまあ、これをきれいにすればヌラさん引き受けてくれるって言うんですから、やりましょうよ~」
「こっちは業者じゃねえんだぞ!どうしろってんだ!」
「う~ん、まずはゴミを撤去して、その都度蔦を切って……」
「やろうとしてんじゃねえ!この規模を二人でなんか不可能だ!あいつは鼻から受ける気なかったんだよ!まんまと騙されやがって……!」
「ヌラさんは」
アシヤは思わずカガリを見た。
カガリは、いたって真剣なまなざしで、アシヤを見つめている。
――僕の嫌いなまっすぐな瞳。
「条件付きで引き受けてくれると言いました。私は、その言葉を信じます」
すぐに目をそらし、懐を探る。
中には紙札が数枚。
「……こんなのに使うもんじゃないんだが。離れてろ」
札に息を吹きかけると、ひとりでに宙を舞い、等間隔で整列した。
頂点を結ぶと、直方体になるようだ。そのまま印を結び、つぶやく。
「五行相剋、辛酉」
すると、札の範囲内にある、屋敷を覆っていた蔦だけが、金色に光る液状の何かに包まれ、消えていった。
カガリはしばらく呆気にとられていたが、ふいにはっとすると目を輝かせた。
「……す、すごいすごいすごい!どうやったんですか⁉」
「うるせえ……この地域はゴミの分別に厳しいのがめんどくせえんだよ……はぁ……だる……後はお前がやれ……」
一気に元気をなくしたアシヤは、近くの土が盛ってあるだけの花壇に座り込んだ。
広範囲の術は流石に体にこたえるようだ。
カガリは腕まくりをして、山積みになっているゴミの群衆を見定めた。
食べ物や本、家電などが有象無象に堆積しているそれは、一人でやるには荷が重すぎるように見える。
だが。
カガリは笑っていた。
「ありがとうございます、アシヤさん、私、頑張ります!」
物怖じすることなく屋敷に飛び込むカガリを見つめていたのはアシヤではなく。
屋敷の陰に潜む、小さな二つの目だった。