すべて世はこともなし 天邪鬼の件 第捌話
「こんにちはー!」
翌日。
午前の授業を微睡みながら過ごし、アオイと会話に花咲かせながら昼食をとったカガリは、元気良くカスミゼミのドアを開けた。
「こんにちは、カガリ君。体の具合は大丈夫?」
「はい!寝てご飯を食べたらこの通りです!ご心配おかけしました!」
「良かった良かった。無茶しないようにね」
「その……あの後何があったんですか?」
カスミはうーんと唸り、腕を組む。
「ごめんね〜、この件についてはなるべく口外するなって言われてるんだ」
「そ、そうなんですね」
「僕から言えるのは、まだあの鬼さんは無事だけど、どうなるかはこれから次第、ってとこかな」
「……」
カガリはあの時の鬼の姿を思い出す。
鏡を抱え、自身に危害を加えようとした妖。
憎しみのこもった瞳には、どこか焦りの色が浮かんでいたように思う。
アシヤには余裕を見せようとしていたが。
「……あの鏡は、どうなったんですか?」
「ああ!ちょうどその件について君たちに頼みたいことがあってね」
「頼み?」
部屋の奥でゴミ山がもぞもぞと動く。アシヤが起きたようだ。
相変わらずボサボサの髪には、紙屑が引っかかっている。
「おはようございますアシヤさん!」
「うるせえ……」
「こらこら、君も今から出かけないと」
「……」
「外に出るんですか?」
「そうそう、今から許町の方に行ってもらって、鏡を直してくれる人に会ってきてもらいたいんだ」
「許町……」
許町は街の外れにあるアパート街である。
かつて妖解放運動が盛んに行われていた場所であり、路頭に迷う人型の妖を積極的に受け入れていた。
数十年経った今では、妖は人の目に触れない場所でひっそりと暮らしており、誰も寄りつかない閑散とした地域になっている。
解体の声も上がっているが、徒党を組んだ妖が反対運動をしており、冷戦状態が続いている。
「カガリ君にとってもいい機会だと思ってね。妖たちがどのように暮らしているか見てくるといい」
「はい!」
「交渉の邪魔だけはするなよ、脳筋」
「それはアシヤさん次第です!」
「めんどくせえ……」
「昨日みたいなミスはしないようにね〜」
「……はい」
アシヤはカガリに鏡の破片が入った風呂敷包みの箱を背負わせ、手ぶらで出て行った。カガリもそんなアシヤの後を追う。
カスミはいつも通り、笑顔で見送った。
「健闘を祈るよ、二人とも」
***
許町は妖の住処だ。
ショッピングセンターも、アパートも、保育所も。
かつて人のために作られた場所は人に捨てられ、それを妖の場所とした。
「妖のための住まい」と言えば聞こえはいいが、そこに人の手が加えられることはない。
隔離されている、と言っても過言ではなかった。
妖たちにも知恵はあるが、インフラのほとんどを人が管理している中で、手を貸してくれる者はいなかった。
けして環境が良いとは言えぬこの土地で、妖たちは身を寄せ合って生きている。
いつしか助けを求めていた手は、誰をも寄せつけまいと跳ね除けるようになった。
己を守るために。
与えられた場所を守るために。
「初めて来ました……」
「だろうな。ここには親玉がいるから、僕らも手出しできない」
コンクリートの灰色が埋め尽くすアパート街には、気配こそ感じるものの誰もいない。
花ひとつ生えていない歩道を歩きながら、アシヤがポツリと呟く。
「妖と人の違いは何かわかるか?」
「授業では、『肉体を持っているかいないか』だって……」
「そう。妖は肉体を持たない。故に僕たち人に対して物理的には干渉できない。逆に言えば、物理以外であれば干渉は可能。だから僕たちの目を通して姿を見えなくすることもできるし……」
ガンッ!
カガリの数メートルほど後ろで大きな音が響く。振り返ると、金属の鍋が衝撃でひしゃげていた。
「ああいった歓迎もできるってことだ」
カガリはぶるっ、と身を震わせ、早足でアシヤの横を歩く。
「……お、鬼さんはあの時私を人質に取りましたけど、あれは物理的干渉じゃないんですか?」
「脳筋のくせに鋭いな。アレは僕たちと同じステージに立っていたからだ」
「ステージ?」
「この世とあの世ってあるだろう。現世と常世……常世から現世には干渉できないし、現世から常世に干渉することは、原則できない。ただし、現世にいるのであれば、相手が妖でも物理的干渉ができる。妖の強みは現世と常世を行き来できる点だ。その点、人は肉体によって現世に縛られているからな」
「ううん……」
カガリは首をひねりながら、険しい顔で悩んでいる。
アシヤの呆れた顔にも気づいていないようだ。
「この程度で唸ってんじゃねえ」
「うぅ……じゃあ今、見えないけど妖さんたちは私たちの周りにいるってことですよね?」
「だな」
「どれくらい?」
「知りたいか?」
「……やめときます……」
流石のカガリも、ここら一帯のどんよりとした空気にあてられていた。
アシヤはちらりとカガリを見たが、何も言わずに足を早める。
「ま、待ってくださいよ〜!」
「……さっさと済ませるぞ。強い妖気は人には毒だ」
「歩いてるのになんでそんなに速いんですか!置いてかないでー!」
空は青く、朗らかな陽気。
それなのに澱んでいるこの空気の正体を、二人はまだ知らないでいた。