すべて世はこともなし 天邪鬼の件 第陸話
暗い。
ノイズのような音が聞こえる。
ひどく喉が渇いた。
目を開けると、いつもの部屋が暗がりの中に沈んでいた。
真夜中だと、かわいいぬいぐるみもおもちゃも少しだけ怖い。
ノイズの音は雨音だったようだ。雷も鳴っている。
……下に降りれば、水があるはずだ。
ベッドから起き上がり、リビングを目指す。
いつもより不気味さを増した廊下を歩きながら、今日はお母さんと一緒のベッドで寝ようと思った。
「……あれ?」
立ち止まる。
なんで私はここにいるんだろう。
どうしてあの時の場所にいるんだろう。
もう少しでリビングに着く。
だがその足は動かない。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
この先に行ってはいけない。
だって、この先は。
「そしたら話が進まないじゃないか」
意思とは関係なく体が動き、リビングに足を踏み入れる。
ピシャアアァァン‼
雷が白く部屋を照らす。
そこには。
血だまりの中に倒れる両親と、ギラギラと光る金色の眼があった。
***
「おい‼」
アシヤは咄嗟に持っていた札で二人を防御したが、カガリは少しだけ光にあてられてしまったようだ。
力なく膝から崩れ落ちる。
「なんでその鏡が力を持っている?」
「はぁ、はぁ……うるさい……」
鬼は割れた鏡を握りしめた。流れる血をものともせず、アシヤの方に突きつける。
鏡の破片の先から、先ほどの白い光が集まっていくのが見えた。
「ちっ……荒事は嫌いなんだよ」
アシヤは言いながら印を結んだ。
鬼を囲んでいたガラスの破片が、操り人形の糸が切れたかのように落ちていく。
「五行相剋、『丁午』」
刹那、印を結んだ手の周りが赤い火に包まれる。
と同時に鏡の光が目に見えて弱まっていった。
「やめろ……近寄るな‼」
鬼は動けるようになったと同時に鏡の破片でアシヤに切りかかった。
俊敏な動きだったがそれを難なくかわし、素早く落ちている鏡の破片を拾い上げた。
「これは使えそうだな」
アシヤは破片を鬼に向け、何かをつぶやいた。
またしても視界が白く染まる。
「畜生……このまま、じゃ……」
どさりと音を立てて倒れたのは、鬼の方だった。
床に伏せている二人には見向きもせず、アシヤは何かをつぶやき続ける。
ガラスと鏡が落ちているところに歩み寄り、手をかざした。
「僕にも見せてもらおうか……五行相生、『辛戌』」
すると、鏡とガラスの破片が動きだし、ステンドガラスのように奇妙な楕円形をなして組み合わさった。
それは鏡の部分は克明に、ガラスの部分はややぼんやりと、血まみれではない、少し幼さの残る鬼の姿を映し出した。
鬼の姿は見えるが、どこにいるのかまでは判別できない。また、音も聞こえない。
「即席じゃ画質悪いな……ん?」
そこに映る鬼は誰かを待っているようで、少しだけそわそわとしていた。
まもなく待ち人が来たようで、鬼は顔を上げる。
誰かと話しているようだが、その内容はわからない。ただ鬼の表情からするに、あまり楽しい話題ではないようだ。
「これじゃ手掛かりにもならないな……」
アシヤが顔を上げようとしたその時。
鮮血。
壁、地面、そして鬼の全身を覆う赤。
極限まで見開いた切れ長の眼が、目の前の惨状を物語っていた。
そして、はらりはらりと数枚の黒く薄い何かが、鬼の眼前を舞う。
烏の羽根。
それに気づいたアシヤが術を解いたのと、鬼を探索していた他の教授陣がこちらに目を留めたのはほぼ同時だった。
「いたぞ!」
「大丈夫?」
がしゃがしゃと音を立てて崩れていく鏡と、それを見つめるアシヤ。
いや、見つめるというよりは呆然としていた。
教授や警察が鬼を捕らえ、カガリを介抱している間も、アシヤはただ立ち尽くしていた 。
「協力感謝するよ、アシヤくん。鬼の身柄はこちらで……」
「待て」
警察が気絶している鬼を運ぼうとしている姿が目に入ると同時に、アシヤは低い声でそれを制した。
「こいつは……カラスを知っている」
***
目を覚ますと、白い天井が広がった。
あの後どうなったのか全く分からない。
少しめまいがする頭を押さえながら起き上がると、傍らにはパンキッシュな黒ずくめの女性が座っていた。
「サツキ、大丈夫?」
「ううん……ここは?」
「保健室だよ。術にあてられて気絶してたんだ。アシヤさんが『寝てりゃ治る』って言ってたから大丈夫だとは思うけど……」
「アシヤさん……そうだ、アシヤさんは!?」
「無事だよ。警察となんか話した後、鬼を連れてどっか行っちゃった」
「そう……アオちゃんはどうしてここに?」
サックーと呼ばれた女性――ソネダアオイはカガリの入学当初からの友人だ。
刈り上げた髪。大量のピアスを開け、ぎらついたシルバーアクセサリーが光る耳元。
革ジャンと黒ブーツを着こなすその姿を見ても、彼女が山形県の由緒正しきイタコの血筋であるとは気づかないだろう。
彼女が親元を離れ、はるか遠いこの陸陽大学に入学した理由を、カガリはまだ知らない。
きょとんとしているカガリを見て、アオイは少し息をついて答えた。
「私たちもゼミ室から避難してる途中だったんだ。そしたらあの、おばあちゃん先生いるでしょ。あの人が『誰かいる』って騒ぎだしてさ」
「おばあちゃん先生、アオちゃんとこの担任だったんだね。誰かって誰だったの?」
「それがわかんなくてね。大変だったんだよ、老人とは思えないものすごい力で私たちを引っ張るの。そしたら他の先生たちとも鉢合わせして、その先にサツキたちがいたってわけ」
「す、すごい……あの先生そういう所あるよね」
「でも良かった、無事で。駄目だよ無茶したら。いくら馬鹿力でも妖は何するかわかんないんだから……」
母親のようにくどくどとお小言をこぼすアオイ。だがその表情からは、カガリを心配する気持ちと不安がないまぜになっていた。
そんなアオイを見て、ベッドの中で小さくなるカガリ。
「ご、ごめん……」
しょんぼりしているカガリを見て、アオイはあきらめたように苦笑する。
「……いいよ。体調は大丈夫なの?」
「う、うん!この通り!お腹すいた!」
「ああ、そういえばもうすぐ2限が終わるころだね。食堂やってんのかな……」
「えぇ~!今日弁当持ってきてないよ!」
友人との朗らかな会話に顔を緩ませた二人は、保健室の先生にお礼を言い、ゆっくりと部屋を後にした。
――事件はまだ始まったばかりであることを知らぬまま。
この先待ち受ける数々の出来事が、彼女たちの人生を大きく変えるとも知らぬまま。