すべて世はこともなし 天邪鬼の件 第伍話
「……油断した」
はっきりと己のミスを認めるアシヤを見て、けらけらと笑う鬼。
「ほんとだよ。命乞いが効く相手とは思わなかったからさ、こうでもしないと見逃してくれないだろ?」
「まあな。しかし、お前みたいな小鬼にまで僕の名は知れてるのか。いや~照れるねぇ」
「そりゃ有名さ。妖も人もモノのように扱う、『人でなしのアシヤイオリ』。こんな小手先の技が通用するとは思わなかったが」
「お前のことを見くびりすぎていたようだな。『雲隠れ』をあそこまでピンポイントで使うなんて」
「そっちじゃ『雲隠れ』なんて呼ばれてるのか。その名の通りとは言い難いね。俺が持ってるのは姿を『欺く』力だ。そしてあの結界……使える範囲が決まっていたようだから、発現される前に俺自身ではなくお前たちの眼に術をかけた、ということさ」
「へ~、案外やり手なんだな、お前」
「一か八か賭けてみただけさ。けけ、天下のアシヤ様にお褒めいただけるとは、こりゃ語り草にはなるかもな」
人質が取られているとは思えないほど、穏やかに会話をするアシヤと鬼。
さすがに表情が固まっているカガリだったが、なんとかして声を振り絞る。
「……あ、アシヤさん、私なら大丈夫です。きっと話せばわかってくれ……」
言いかけたカガリの喉元に、ちくりと痛みが走る。鬼が少しだけ力を込めただけで、首筋に赤い線が流れた。
「喋るなよ、人間。さっきお前が妨害したせいで何もかも台無しなんだよ。そもそも何も聞かずに俺をとっ捕まえてきたのはどこのどいつだ?」
「……」
黙り込むカガリを鼻で笑うアシヤ。
どうやらこの妖は、引ったくりの件を相当根に持っているようだ。
「ほら言わんこっちゃない。で、お前は何が望みなんだ?」
「……このまま俺を見逃せ。そうすりゃこいつには何もしない」
「本当かぁ?僕は別にこの馬鹿がどうなろうがどうでもいいんだが」
「それこそ嘘だろ。さっき逃がそうとしてたじゃないか」
「いやいやお前こそそいつに恨みがあるんじゃないか?」
嘘つきと嘘つきの会話は平行線をたどる。
ただ間違いないのは、アシヤが一歩でも近づけば、鬼は間違いなくカガリの頸動脈を切り裂く、という現実だった。
「……もっと怯えてもいいんだぜ、人間。いつもより張り合いがねえや」
「……」
「あぁ、喋るなって言ったのは俺だったか」
カガリはただじっと、アシヤを見つめていた。
少しの合図も、見逃さないように。
アシヤもまた、鬼の一瞬の隙も見逃さないように、ただじっと時が来るのを待っていた。
「その鏡、なんに使うんだよ。本物ならまだしも、ただの鏡だろ?」
「……お前には関係ないことだ」
「ふむ、じゃあ僕が当ててやろうか。……身だしなみチェックとか?」
「冗談にしては寒すぎるな、クソ陰陽師」
「うざ……そっちはもう廃業してんだよ」
「有名なのはそっちだろ。……ああもう、無駄話はもうやめだ。俺はもう行く。邪魔すんなよ」
しびれを切らした鬼がほんの少し後ずさりした瞬間。
「動くな」
アシヤの言葉は鬼にではなく、カガリに向けたものだった。
カガリも、その合図を見逃さなかった。
しっかりとアシヤを見据え、全身の筋肉に力をこめる。
ガシャン!
一枚だけ窓に貼りついていた紙札が、大きなガラスを割ったのだ。
その破片の一部は重力に逆らい、鬼に向かって飛ぶ。
カガリのいる場所を紙一重でかわし、精密な動きで鬼の爪を叩き折った。
「なっ……」
そのまま破片は鬼の周りを取り囲み、少しでも動けば流血は免れない状態へと持ち込んだのだ。
カガリに傷一つつけず、かつ鬼を無力化したのだ。
術のみで無機物を複数、精密に操るのは容易ではない。
まさに神業、だった。
「なん、で……」
「言っただろう。僕たちの見ているものが本当かどうかは、常に疑う必要があるということだ、って。予防線ぐらいいくらでも張れる。……もういいぞ」
その言葉をきっかけに、おそるおそる鬼の横を抜けてアシヤの元に戻る。
鬼は指先一本動きが取れないまま、ただそこに立ち尽くしている。
「ありがとうございます、アシヤさん」
「ここまで体を張ってもらえるとは思わなかったね。献身的すぎて涙が出そうだ」
「冗談きついですよ……でも、信じてくれたんですよね?」
「は?」
「私が絶対に『動かない』ってこと」
「……あの時」
アシヤはふいと目をそらし、露骨に嫌そうな顔をした。
「身動きもせず僕を見据えていたのはお前ぐらいだったからな」
それを聞いたカガリはぱあっと目を輝かせる。
「わーい!てことは私にも見込みがあるってことでいいんですよね?ね?」
「思いあがるな脳筋」
「ひどい!でも馬鹿じゃなくなった!」
「うるせえ!これは貸しだからな!あとさっき殴ってきたこと謝れよ!すげえ痛かったぞ!」
「じゃあ私のこと馬鹿って言ってたことも謝ってください!」
「減らず口を……」
ガシャン。
言い合っている二人の横で、何かが割れる音がした。
それは、鬼が血まみれになりながらカバンの中にある鏡を取り出し、叩き割る音だった。
「こうなったら最終手段だ……どうなっても知らないぞ!」
割れた鏡は白く光り、三人の視界を妖しく染めた。