すべて世はこともなし 天邪鬼の件 第肆話
「な、なんで……ぐぇっ!」
言いかけたカガリの、上着のフードをひっつかんだのはアシヤだった。
喉元が絞まると同時、あっという間にアシヤの後方上、6段上の階段の踊り場にふっとばされる。
とっさに受け身を取ったため、痛みこそないが驚きで身動きが取れない。
「流石、女は魔を寄せるだけあるな」
アシヤは鬼から目を離すことなく、ただそこに立っている。
鬼はアシヤを睨みつけながら、鏡をかばうようにして徐々に後ろに下がっていた。
カガリは必死に状況を整理しようとしていた。
ここは大学構内の廊下の突き当たり。
今いる所から外に出るには、鬼のいる方に向かって廊下を進まなければならない。
アシヤたちは階段を背にしているため、地理的にはこちらの方が不利だ。
だがドアを挟んでいるので、素早く閉めて2階に戻れば別口から出られる。
……鬼が追いかけてきたのなら話は別だが。
鬼の意図や大学の地理をどれだけ把握しているのかまではわからない。
カガリはそこまで考えたところで、アシヤがこちらに目配せしていることに気づいた。
お前は逃げろ。
自称天才は、自身を囮にしてカガリを逃がそうと考えているのだ。
ちょうど鬼からは死角の位置にいる。
逃げるなら今しかない。
「……勘違いするなよ」
アシヤはこちらを見ることなく、カガリに向けてつぶやく。
「お前は邪魔だ。術のいろはも知らん馬鹿は足手まといなんだよ」
「アシヤさん……」
「さっさと行け、馬鹿女」
アシヤの言うことはもっともだ。
カガリはまだ2年生。まだ「妖とは、術とは何たるか」を座学で学んだ程度で、実践などもってのほかだ。
実践を積んでいる先輩に任せれば、自分の身は守れる。
だが。
カガリは立ち上がり、静かに構える。
その姿勢は、飛び上がるための構え。
……実際には、6段ある階段をひとっとびで降りたのだが。
音もなく、姿勢を崩すこともなく降り立つ。
一瞬で視界に少女が飛び込んできたため、鬼は少しうろたえていた。
表情こそ変わらなかったが、アシヤも同様だった。
「……何をしてる」
「さっきから馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿って……」
鬼に気を取られていたため反応が一瞬遅れる。
カガリは拳を強く握りしめ、そして。
ぼかっ。
アシヤの顔面、厳密にいうと右頬にめり込ませていた。
「人を馬鹿にするのもたいがいにしてください‼」
アシヤは倒れることこそなかったが、予想外の方向からの攻撃に体をよろめかせた。
「……っ!お前、今それどころじゃ……」
「本当に天才なら、素人もうまく使ってくださいよ!」
「……は?」
アシヤはちらりと鬼を見やる。
まさか目の前で仲間割れが起こると思っていなかったのか、明らかに動揺している。
だが殺意は変わらずそこにある。
改めて鬼の方に向き直り、カガリを背に追いやる。
だがカガリはぐいぐいとアシヤの前に出ようとする。
「何のつもりだよ!遊びじゃねえんだぞ!」
「あの妖さん、今朝見たひったくり犯と同じです!」
「は⁉」
「でもなんか変なんです!」
カガリはアシヤの腕をすり抜け、前に出る。
「どうしてさっきから、私たちを襲わないんですか?」
「……」
鬼は明らかにこちらに殺意を向けている。
なのに一向に襲ってこない。あまつさえ逃げようとすらしている。
「……余計な真似をするな」
「きっと何か事情があるんですよ。話してみれば……」
「相手は妖だ。こちらのルールは通用しないと、さっき言ったはずだ」
「でも!」
「見てろ」
振り返ると、アシヤは紙札を数枚手に持っていた。
少し皴の寄ったそれは、筆で何やら書かれており、カガリの目からは内容が読み取れない。
それらはアシヤの手から離れると四方へ散り、鬼の周りを取り囲んだ。
「やめろ……!」
逃げようとする鬼は、金縛りにあったかのように身動きが取れない。
鏡をかばい、姿勢が崩れる。
そして、鬼の姿もまた変貌しつつあった。
鬼の黒いパーカーは色をなくし、白いシャツとジーパンに変わっていく。
角も牙も失ったそれは、大きなカバンを持ったただの人間の男だった。
「だ、大丈夫ですか⁉」
慌てて男に駆け寄るカガリ。
男はぼんやりとした表情で何もない空間を見つめている。
「お兄さん、何があったのか説明できますか?」
「……さっき鏡を持った妖に襲われて、それで……」
「これが妖の術だ。今使ったのは簡易結界。結界の中では術は使えなくなる。いい勉強になったな」
アシヤは納得したような表情でカガリたちを見て、印を結んで結界を解いた。
紙札は男の体から離れ、四方へ散っていく。
カガリは男の肩を担ぎ、避難先へと促す。
使い物になってよかったなと鼻で笑うアシヤを見て、カガリはうなだれた。
「私、妖さんじゃない人に交渉しようとしてたんですね……」
「僕たちの見ているものが本当かどうかは、常に疑う必要があるということだ」
「すみません……」
「今のように攪乱する術が使える奴は厄介なんだよ、誰に化けてるかわかりゃしない。しかも相手はあの鏡を盗んでるときた……」
「あの鏡?」
「大学に保存してある文化財の一つだ。浄玻璃鏡の精巧な模造品……地獄の閻魔が使う、映した者の生前を包み隠さず見せる鏡だ」
「へえ、そんなものがこの大学にあるんですね」
「しょっちゅう図書館で展示されてるだろうが。本物じゃないから使い物にもならんがね。しかし何であんなもの……」
ふとアシヤは足を止め、男を見据えた。
力なくカガリの肩を借りているにもかかわらず、大きなカバンはしっかりと肩に提げている。
そのカバンの大きさは、1泊2日の旅行にはちょうどいいぐらいだ。
……ちょうど、展示されていた浄玻璃鏡が収まるほどに。
先ほどの言動を思い出す。
――あの時の男は、「やめろ」と言った。
本当に人間なら今の姿から解放されることを望むはずではないか。
「……おい」
刹那、視界が白く染まった。
「あまりコレを舐めない方がいいぜ、アシヤイオリ」
その声は、ここにいる人間の誰のものでもなかった。
視界を取り戻したアシヤの目の前には、カガリの喉元に鋭い爪を突き立てた、本物の鬼が立っていた。