すべて世はこともなし 天邪鬼の件 第参話
ピィーーーーー‼
学内の警報が鳴ったのは、カガリがカスミの手をしっかりと握った瞬間だった。
「……またか」
警報とともに流れる、学内の生徒は直ちに学外に避難せよという指示。
カガリがこの流れを避難訓練以外で経験したのは先月……獣型の大型妖が大学内に迷い込んだ時以来だった。
火事の時の警報と妖がらみの警報は音が異なる。今回は後者の方だった。
「なんか最近多いねえ……おっと」
カスミの懐付近から音のこもった着信音が響く。いそいそとアシヤとカガリの手を離し、その場を離れていった。
「お前はさっさと避難しろよ」
「アシヤさんは?」
「僕は例外だ。どうせ現場に行かされる」
「なんで……」
カガリが尋ねようとしたとき、カスミがアシヤを手招きした。
彼女に聞こえないよう、小声で話し始める。
「アシヤ君、相手は凶器を持ってるそうだ。その上『雲隠れ』を使うと来た。カガリ君一人で行かせるのは流石に危ない」
「え、でも……」
「君がいれば安心だ。よろしく頼むよ」
「えぇ……」
あからさまに面倒そうな表情を浮かべるアシヤ。
そんな彼を、カスミはニコニコとたしなめる。
「まあまあ、そんな顔しないでよ。もし仮に何かあっても、彼女なら大丈夫だから。そうでしょ?」
「……僕はまだ信用してませんよ。本当に大丈夫なんですか、あいつ」
「……僕が手放しで、あんないたいけな女の子をここに引き入れると思うかい?」
「今まではそうだったでしょうが!」
「はっはっは。まあ何かあればいつもの感じでよろしく~」
イライラしながらカスミの元を離れるアシヤ。
カガリは微妙な顔をして、行こうか行くまいか迷うそぶりを見せていた。
「カガリ君はアシヤ君と一緒に避難して。事情は終わってから話すよ」
「わ、わかりました!」
「……ちっ。さっさと行くぞ馬鹿女」
「馬鹿女じゃないですカガリです!」
言い合いながらゼミ室を出ていく二人を尻目に、カスミはほんの少しだけ微笑みをなくした。
アシヤの机を見ると、ゴミの中に一匹大きなハエがいるのが見えた。
カスミはそのハエをじっと見つめる。
ハエは毛づくろいをしていたがじきに飛び立ち、そして……。
ぼっ。
青く小さな炎を上げて、ハエは落ちていく。
そのまま何もなかったかのように、炎とハエは空気の中に消えていった。
カスミはその状況を意に介することなく、困ったように頬に手を当てる。
「う~ん……面倒なことになったねぇ」
***
「……」
「……」
カスミゼミのドアを閉めた途端、訪れる沈黙。
二人は初対面。かつただちに避難すべきこの状況で和やかな会話が生まれるはずもなく。
長く広い廊下を抜け、四方壁に囲まれ閉塞感が漂う非常階段を下りる。
とんとんと、階段を鳴らす足音だけが響く。
そんな状況に耐えかねたのか、二階へのドアが見えた頃にカガリは口を開いた。
「……もっと急いだほうがいいんじゃないですか?」
「小学生の時に教わらなかったか?『おさないかけないしゃべらない』。まして今回は妖だ。急いだところで暇なだけだ」
「にしても随分と余裕がありすぎるような……」
「心の余裕がなければ妖に付け込まれる。状況説明があとでされるのは、聞いた人間がパニックを起こさないため。まして僕は天才だ。大船に乗ったつもりで避難するといい」
大きな欠伸をしながらのんびりと歩くその姿は、危険な妖から逃れるために避難しているとは到底思えない。
五段ほど先を行っていたカガリは、アシヤのあまりの危機感のなさに思わず足を止めてため息をついた。
「自分で言うんだなぁ……。でもさっきのはびっくりしましたよ。いきなり刃物向けてくることなかったんじゃないですか?」
「そりゃお前をビビらせようとしてやったからに決まってんだろ。アレさえやっときゃ大概の奴らは腰を抜かすもんだが、そのまま突っ立ってた奴はお前で二人目だな」
「そうなんですか?」
「一人目は立ったまま気絶してた」
「私はあの程度じゃ気絶しませんよ。今朝だって引ったくりを捕まえてきたところなんですから!」
「……」
「そのせいで遅刻しそうになったんですけどね。そういえばあの時の犯人も妖だったっけ。あの後どうなったんだろう……」
「……」
「他にも人がいたし、通報してる人がいたから大丈夫だと思うんですが」
「……」
「……アシヤさん?」
突然何も言わなくなったアシヤを見ると、ただでさえ不機嫌そうな顔がより渋くなっていた。
カガリが首を傾げた刹那。
ぞわり。
背筋に氷を押し付けられたかのような寒気が走る。
カスミの時に感じた恐怖とは異なる、得体のしれない感情。
否。
カガリは知っている。
こちらに向けられている感情を、カガリは以前経験している。
……いつ?
いや、今はそれを考えている余裕はない。
そんなことをしていれば、こちらの首が取られる。
この感情は、明らかに。
殺意だ。
そんなカガリにかまうことなく、アシヤは顔をしかめたままゆっくりと、カガリの背後を指さした。
「……その引ったくり、もしかしてあそこにいる奴か?」
おそるおそる、首を向ける。
カガリが振り返った先。
1階につながるドアは開いている。
そこから見える、前方10メートルほど先にいたのは。
大きな鏡を抱え、暗い色のパーカーを身にまとい、額の角も牙もむき出しにして、こちらを睨みつけている。
妖だった。