すべて世はこともなし 天邪鬼の件 第弐話
陸陽大学のキャンパスは左から順に教育学部棟、講義棟、妖怪学部棟の3つの棟からなる。
少女はうち右端の妖怪学部棟に飛び込み、階段で三階を目指した。
叩いた扉には、『ゼミ室B 担当:春見弘史』と書かれている。
「おはようございまーす!」
スライドドアを開けた先には、ロマンスグレーの髪色にスーツを着こなす初老の男性が立っていた。
「おはよう~。カスミゼミにようこそ。カガリ君だっけ?今日からよろしくね」
「はい!今日からお世話になるカガリサツキです!よろしくお願いします、カスミさん!」
少女……カガリの溌溂とした発声に初老の男性……カスミは朗らかに笑う。
「ははは、元気だね~」
「あれ?他の方々は?」
ゼミ室を見ると、事務机が向かい合わせで4席並べられた奥には、間隔をあけてさらにもう2席事務机が置かれている。
その2席のみ窓際に位置しており、いわゆるお誕生日席のような向きで鎮座していた。
向かって右側の机には分厚い本が5冊ほど並んでいるが、それ以外には何もなく整然としていた。
対して左側の机は、人が使える様相とは思えないほど乱雑としており、ぐしゃぐしゃになった紙や本、タバコの空き箱やらコーヒーの缶やらがうず高く積まれている。
そしてそれらの席には――誰も座っていなかった。
「う~ん……。いろいろあってね、君以外の新入生は他のゼミに行っちゃったんだよね」
「えぇ⁉」
「まぁ、いつものことだから気にしないで!」
「そんな……」
「お前もすぐ出ていくことになるだろうよ」
カスミとカガリの会話に割りいる低い声。
声は雑然とした机の方から聞こえたようだ。
「君にももっと思いやりの心があれば、恒例行事にはならないと思うんだけどねぇ?アシヤ君」
「知りませんよ、そんなこと。生半可な気持ちで入ってくる奴が悪い」
カスミの言葉に答えた男……アシヤは、机に積まれたゴミ山の後ろからのっそりと出てきた。
目つきは悪く、クマが深く刻まれている。
着ているシャツも皺々で、ぼさぼさの頭をさらにぐしゃぐしゃとかきむしっている。
「……どういうことですか?」
「すぐにわかる」
アシヤはポケットの中を探りながら、足早にカガリの近くに歩み寄っていく。
ポケットから取り出したのは、鈍色に光る小刀。
無表情で何かをつぶやきながら刃を向けて迫りくるその姿にたじろぐカガリ。
「な、何のつもりですか!」
「動くな」
その動きには音もなく、予備動作もなかった。
カガリの左頬をかすめた小刀は、宙を漂う大きなハエの羽のみを切り取っていた。
羽を失ったハエは体を残すことなく、空気に溶け込むように消えた。
「擬態した妖だ。虫型は盗聴や盗撮に使われる。ここじゃそんなものに価値なんかないのに、いまだにけしかけてくる馬鹿がいる」
「……なぜ?」
「いい餌になるからだよ。お前みたいな虫と妖の区別もつかない馬鹿や女は、知らぬ間に情報を相手に明け渡し、取り込まれ、食われる。馬鹿は人にも妖にも欲望の捌け口にされるのが落ちだ」
語るアシヤの目は真夜中のように暗く沈んでいる。
誰も受け入れず、肯定しない、拒絶をはらんだ眼。
「そんなの……」
「お前が来た理由はわかってる。カスミさんの耳当たりのいい言葉に惑わされたんだろう。『人と妖の”真の”共存』だったか。そんな言葉に惹かれてやってきた奴らを片っ端から叩き出すのが僕の仕事だ」
それを聞いたカガリは反射的にアシヤに詰め寄る。
「嘘ですよ!だったらなんであなたはここにいるんですか!営業妨害甚だしいですよ!」
「言っただろう。自分の身を自分で守れない馬鹿は食われる。話し合いだか譲り合いだかは、妖には通用しない。妖には妖の、人には人の『ルール』ってものが存在する。それすら許容できない奴に共存を謳う権利はない」
カガリはカスミの方を向いて抗議の声をあげる。
「カスミさん、どうしてこの人追い出さないんですか!新入生を追い出すなんてひどいですよ!」
「……そうかい?」
カスミはあくまでにこやかに、けれど淡々と答えた。
「悪を許さない気持ちは大切だ。しかしそれでは意味がないんだ。黒いものを白に、白いものを黒にしようとした時点で軋轢が生まれる。僕たちの掲げる『共存』は、黒も白もグレーも同時に存在できる世界だ。そうだろう?――僕の一番弟子、アシヤイオリ君」
それを聞いてカガリははっとした。
もう既に、講義は始まっているのだということに。
***
「じゃ、そういうことなんで。嫌なら出ていけばいい。他の奴らと同じようにな」
手をひらひらと振り、追い出すようなしぐさをするアシヤ。
カガリは、カスミの顔をじっと見ていた。
その表情から、何を思っているのか、どうしてこのようなことをするのか推し量ることはできない。
ただそこには、にこやかな顔があるだけ。
表面上は暖かく優しい微笑みだが、その中身は仮面のように無機質だった。
すっと、カガリの背に寒気が走る。
「何を考えているのかわからない」と心から感じたのは、これが初めてだったからだ。
「……一つだけ、教えてください」
「うん、いいよ」
「黒も白も存在していいのであれば、なぜ出ていかせようとするんですか?」
「いい質問だね。この時点で耐えられなかった人たちは最終的にどうなると思う?」
「……他のところに行こうとするんですか?」
「そう。行き着く先が同じであれば、わざわざ引き留める理由もない、ということ」
カスミは変わらず微笑みをたたえているが、発する言葉は辛辣だった。
それは同時に、すべてを諦めているようにも見えた。
「理解しなくてもいい」ということは、分かり合うことよりも難しいのだと、その微笑みが語っていた。
教授と生徒。師匠と弟子。
理想を求めた結果、この二人しか残らなかったのであれば。
カガリはしばらく黙っていたが、ぎゅっと拳を握り、今度はカガリに背を向けているアシヤを見た。
「私は……アシヤさんの考えには賛同できません。先ほどのカスミさんの意見にも」
「そうか」
「でも……残ります」
「……」
「黒とグレーしかいないのはおかしいですよ。先ほどの言い分がまかり通るのであれば!」
アシヤは振り向くことなく、ただどこに行くでもなく、そこにいる。
「私が白になります。アシヤさんが間違ってたら私が止めます。カスミさんも間違ったことをしてたら止めます。その分、私が間違ったことをしていたら止めてください。白も黒もグレーも一緒にいられる、それをこのゼミで体現しましょうよ!」
少しだけ、間があった。
アシヤの表情は読み取れない。
カスミもまた、変わらず微笑んでいた。
……が、ほんの少しだけ、カスミの口角が上がったように、カガリには見えた。
「……勘違いするなよ」
「え?」
ふいにアシヤが振り向き、カガリにつかみかかる勢いで立ちはだかった。
「お前みたいな馬鹿に僕やカスミさんをどうこうできるわけないだろうが……どうあがいても力不足なんだよ!」
「そんなのやってみないとわかんないじゃないですか!」
「いーや、どうせすぐ泣いて帰るにきまってる」
「泣きませんよ!さっきから私が女だからって馬鹿にしてますよね⁉」
「女だからじゃない。女であり、かつ馬鹿だからだ」
「ひどい!」
「こんな誰もいないゼミに入ろうなんざ大馬鹿に決まってんだろうが!」
「そんなことないですよ‼これでも私単位落としたことないんですから‼」
「うるせえ‼絶対落としてやる……!」
「アシヤ君、単位落としすぎて3留してるからそこは突っ込んじゃだめからねー」
「カスミさんは余計な事言わないでください‼」
「え……3留しといてそんなに偉そうなんですか……?」
「黙れ‼こっちは技術力で言ったらそこらの教授より上なんだよ……‼」
「あははは!」
アシヤがぎょっとした顔でカスミを見る。
先ほどの仮面のような微笑みとは違い、心の底から屈託なく笑っているのがわかった。
「か、カスミさんが笑った……」
「珍しいんですか?」
「天変地異が起きるぞ……」
「アシヤ君、あとで部屋に来てね」
「ひっ……」
「でも、こんなに楽しい気持ちになったのはいつぶりだろう……白、白か。うん、君なら大丈夫だよ、カガリ君」
「……?」
カスミは一人で納得したようにうなずいている。アシヤはこっそりゼミ室から抜け出そうとゆっくりと動いているが、その腕をカスミにがっしりと掴まれ直立不動で硬直した。
カスミはにっこりと微笑み、アシヤを掴んでいる手と反対の手を差し伸べた。
「改めて歓迎するよ。カスミゼミにようこそ、カガリサツキ君」